理事長・校長ブログ
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2015/04/03
- 理事長・校長
読書案内3
3月22日の新聞に、明治~大正、昭和期の物理学者・随筆家の寺田寅彦の書簡が発見されたことが報じられていました。
夏目漱石のもとに集う弟子たちの一人として知られ、科学者でありながら、文学や西洋音楽など自然科学以外の事柄にも造詣が深く、科学と文学を調和させた優れた随筆を数多く残しています。
本学園とも縁の深い『吾輩は猫である』に登場する水島寒月のモデルともいわれ、その意味でも興味深いニュースなのですが、今回は、この手紙の宛先である「歌人・石原純」に注目します。
「読書案内」“OB編の2”として、物理学者の石原純(1881~1947)です。
アインシュタイン、インフェルト著、石原純訳
『物理学はいかに創られたか』上・下巻(岩波新書版)
上の新書は、「二十世紀を代表する物理学者であるアインシュタインとインフェルトが,専門的予備知識を持たない読者のために,現代物理学の全貌を平易に解説した万人のための入門書.数式を用いず,巧みな比喩と明快な叙述によって,ガリレイやニュートン以来の物理思想から相対性理論および量子論に説き及ぶ」(岩波書店HPより)もので、原著初版が発行されたのが1938年、その翌年に物理学者・石原純による翻訳が岩波新書として発行されたもので、現在でも、2013年1月の第95刷と延々と版が重ねられています。
訳者の石原純は、郁文館中学(旧制)明治31年の第7回卒業生で、一高を経て東京帝大を卒業、東北帝国大学助教授となりヨーロッパに留学し、アインシュタインなどから指導を受け帰国、その後、同大教授となり日本の物理学の指導者として期待されました。日本で初めて相対論と量子論の論文を書いた理論物理学研究の先駆者で、1922年にアインシュタインが来日した際には、各地に同行して通訳などを務めました。
1922年 来日したアインシュタイン夫妻と
日本に向かう船上でノーベル賞受賞の報を得たこともあり、ニュースが伝えられた日本国内では、各地で熱狂的な歓待を受けた
また石原はアララギ派の歌人としても活躍し、新短歌論の提唱者として知られていますが、女性歌人との恋愛事件により大学を退職、科学ジャーナリストに転身し、以後は物理学の啓蒙書を執筆したり、理化学辞典の編集や岩波の雑誌「科学」の編集主任も務め、1947年に亡くなるまで科学論、科学教育論、科学政策論、文明論、社会批評、恋愛論……と広範囲な著作活動を活発に行うなど、まさに“科学ジャーナリズムの先駆者”でした。
下の書籍は、物理学史を専門とされる科学史家の西尾成子さんが、石原生誕130年を記念して2012年に出版された石原の評伝で、その生涯を丹念に辿った労作です。
西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原純』
(岩波書店)
西尾氏の表現を借りるなら、石原は、のちにノーベル賞を受賞する湯川秀樹や朝永振一郎という日本人科学者を、その著作で物理学の道に導いた「科学の巨人」で、また、後年の科学の啓蒙書、解説書は広い範囲の人々に読まれて影響を与えた、まさに「第一級の科学ジャーナリスト」です。にもかかわらず、これまで事績研究があまりなされてこなかったのは、「同じように優れた物理学者であり、文筆家であった寺田寅彦に対する扱いとは大ちがいだ」と言え、今後、西尾氏のような石原再評価の研究が続くことを期待します。
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石原と郁文館で同級生であった、物集高量(もずめ たかかず)の回想を記します。物集は父・高見(東大教授)と共著の『群書索引』(全三巻)及び『広文庫』(全二十巻)を、三十有余年をかけて編んだ京都大出身の国語学者。この回想は昭和50年12月の学園史のための談話筆記で、文中「先生」とあるのが、この時96歳の物集のことです。
「(ここで先生は当時の出席簿をソラでつぶやきながら、出来る、出来ないの評をつけ加える・・・)
阿部泰二、出来る、泰蔵の息子。篠、中島、大したことなし。よく出来たのは石原純。小さな男で、口は一切きかず、いつも部屋の隅っこにいた。先生がこんな風に成績表を読み上げるんだよ。「石原、算術一〇〇点、幾何一〇〇点、代数一〇〇点、三角一〇〇点、石原は出来るなー」
(突拍子もない大声で、どなるように言われるが、それは演技ではなく、やはり先生は既往にもてあそんでいられるのだ。八十年前 昔も昨日の出来事なのだろう。)
石原はアララギ派の会員で、そのうち原阿佐緖という美人とくっついたが、当時は東北帝大の教授であった。石原はそれが因で大学を辞し、家を飛び出して原と房州保田のマツミヤ旅館にいた。おっちょこちょいの私は、その原を見に保田まで石原を訪ねていったが、両人は散歩に出ていていなかった。
石原は大正八年頃、アインスタイン「相対性原理」の翻訳を岩波から出した。それを買って読んでみたが、皆目分からん。石原は日本一の頭脳だという評判が立っていたが、くやしいから易しく解説したものをまた買って読んでも分からん。これが石原のしかないから実によく売れる。誰にも分からんから、もっと易しいのを出すとまた売れる。分からないから売れるんだ、そして岩波のベストセラーになった。郁文館から石原純が出たことは学校の名誉ですよ。
(昭和50年の談話筆記「なつかしき母校-八十年前の郁文館-」『郁文館学園九十年史』より)
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物集が語るように、「郁文館から石原純が出たことは学校の名誉」であり、この偉大なる卒業生の存在と業績を、後輩である生徒たちに誇りをもって語っていきたいと思います。
校長 宮崎 宏