理事長・校長ブログ
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2017/09/08
- 理事長・校長
郁文館と寄宿舎
郁文館が創立された明治時代は、青少年の上京遊学が盛んだった時期で、地方から数多の秀才が、青雲の志をもって都下に遊学を試みました。郁文館を含む東京の旧制私立中学は、それぞれの建学理念に基づき行った人格教育のみならず、高等諸学校、その後の帝国大学へと繋がる予備校的存在としての機能をも期待されており、明治20年代には、上京遊学者のためのガイドブックが出版されるほどそのニーズが高まっていました。
実際に、郁文館の明治期の卒業生名簿に記された出身地・府県名を見ると、北海道から沖縄まで非常に多様で、現在の47都道府県全てから入学者がいます。
試みに、第1回から第10回(明治25~34年)までの卒業生596名のうち、名簿に出身府県が記載された548名を調べてみると、地方別では、北海道・東北47名/関東200名/中部132名/近畿35名/中国・四国47名/九州87名、府県名で上位からあげると、東京121名は当然のこととして、以下、新潟37名、千葉27名、熊本23名、愛知22名、茨城19名、佐賀18名、静岡・山口17名、北海道・福岡・岐阜16名となり、日本全国からまさに「笈を負う」て上京、入学していたことがわかります。
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東京にはこうした上京遊学者のための下宿屋が多く、郁文館には、学校として正式に運営する寄宿舎はありませんでしたが、創立間もない頃から校長・棚橋一郎は私邸に家塾を設け、十数名の生徒を容して監督訓育していました。この家塾は待鳳舎(たいほうしゃ)と名付けられ、ここから多くの優れた人材が巣立って行きました。
『学園百年史』より
また、教職員が学校付近の下宿屋を利用して、生徒を収容し寄宿舎を営むこともあったようで、たとえば漢文教師で書記も務めた三村陳政が舎監を務めた寄宿舎が、元の一高から弥生町に出る角(現東大農学部の区域)にあり、12~13名の生徒を収容し、後の大審院長・泉二新熊(鹿児島県奄美出身)、司法大臣・宮城長五郎(埼玉県出身)などもここに起臥しました。
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そうした寄宿舎のうち最も有名なのが、名前だけ立派な安下宿として「『吾輩は猫である』に「群鶴館」という名で登場する、蓬萊館です。
鏡子夫人の記憶による漱石邸の見取り図で、最上部(東側)に”下宿屋”と記されているのが蓬萊館で、そのみすぼらしい下宿屋が「群鶴館」という美しい名前と知り、小説の中で猫がつぶやきます。
「・・・名前に税はかからんから御互にえらそうな奴を勝手次第に付ける事として・・・」
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)より
実際に蓬萊館に下宿していた卒業生・安田尚義(明治37年卒、宮崎県出身の歌人・歴史学者)の自伝によれば、
「・・・かくして明治三十六年四月からここの五年生となった。(中略)私はこの時代の一カ年中学の近くの下宿「蓬萊館」にいた。その北隣りが夏目漱石邸で、私の部屋は二階北側にあったから、平屋の南縁に日向ぼっこをしているネコがよく見えた。そのころ漱石は「吾輩は猫である」を執筆中であったからそのモデルネコである。右の名著を取って「八」のはじめを見ると蓬萊館を「群鶴館」と名付け『名前だけは立派な安下宿』と言っている。それもそのはず、四畳半一間で下宿料七円五十銭だった。国元から学費十五円送ってもらってその半額を払っていたわけである。・・・」(『虔々集』)
当時の月謝が二円ほどであったことを考えると、学校の至近にあるという地理的メリットを考えても、四畳半一間で七円五十銭はかなり高く、仕送りの半分が下宿代で消えるのは地方遊学者にとってさぞ辛いことだったでしょう。
集団生活の中で、互いに切磋琢磨しながら、一途に勉学に励んだことと思いますが、血気盛んな中学生が寝食を共にしている訳ですので、時にバンカラな連帯意識が発揮され、旧制高校のストームとまではいかないまでも、周囲から見れば十分「バカ騒ぎ」に値するような振る舞いがあったことは想像に難くありません。
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漱石が門下の鈴木三重吉に宛てた明治39年元日の書簡(前日、明治38年大晦日の文面)に、「ホトヽギスを見ましたか。裏の学校から抗議でもくればまた材料が出来て面白いと思っている。この学校の寄宿舎がそばにあってその生徒が夜に入ると四隣の迷惑になるように騒動する。今夜も盛にやっている。この次はこれでも生捕ってやりましょう・・・」(三好行雄編 『漱石書簡集』(岩波文庫版))とあり、下宿生活をする本校生徒が、夜、大騒ぎしている様子が伺えます。
“生捕ってやりましょう”というのは、野球のボール(ダムダム弾)を取りに来た生徒と丁々発止にやりとりしたのと同様、”作品中に登場させる”というような意味だと思いますが、いずれにせよ、漱石先生には、様々な面でご迷惑をかけていたことがわかります。
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現在、郁文館には寄宿舎、学生寮はありませんが、明治の頃のように日本全国から志願者が集まり、入学者を収容する施設を持つ、そんな学校にしたいとの想いもあります。もちろん、その場合、夢教育の根幹ともいうべき人格教育、人間性向上の指導を最優先させ、間違ってもご近所にご迷惑をかけるようなことがないよう、生活指導を徹底させなければなりません。
・・・それが漱石先生へのせめてもの”魂鎮め”となるかもしれません。
校長 宮﨑 宏